町に濃い霧が降りた朝、真琴はいつもより早く自然史資料館へ着いた。古い建物の窓は白く曇り、向かいの交差点さえ見えない。開館前の展示室では、ガラスケースの中の標本だけが、時間から取り残されたように静かだった。
真琴の仕事は、寄贈された鳥や昆虫の標本を整理し、番号をつけ、来歴を記録することだった。死んだものには必ず名前と日付が与えられる。その整然さが彼女は好きだった。生きている人間の記憶は、いつも順番を守ってくれないからだ。
昼前、裏口のほうで小さな音がした。扉を開けると、霧の中に1羽の渡り鳥がうずくまっていた。羽根を傷めているらしく、飛ぼうとしては諦めている。
真琴は段ボール箱にタオルを敷き、その鳥をそっと入れた。
館長は「保護先に連絡しておく」と言ったあと、真琴の背中を見て笑った。「君は標本を覗き込む時、ずいぶん猫背になるね」。真琴は反射的に肩を伸ばしたが、すぐにまた箱の中を覗き込んだ。
鳥の黒い瞳には、部屋の蛍光灯が小さな星のように映っていた。
その夜、保護施設から迎えが来るまで、真琴は事務室で鳥と2人きりになった。窓の外は相変わらず真っ白だった。
彼女は子どもの頃、父と見た銀河のことを思い出した。山の上で見上げた夜空は、星が多すぎて空に奥行きがあることさえ忘れるほどだった。
父が亡くなったあと、真琴は思い出せなくなることを怖がるようになった。写真を捨てられず、切符を残し、メモを保存した。忘れないために集めたものが、いつしか部屋の中に小さな博物館を作っていた。
けれど、記憶は標本にはならない。ピンで留めても、ケースに入れても、同じ形では残ってくれない。
箱の中で鳥が急に羽ばたいた。弱々しいが、さっきより力がある。真琴は思った。この鳥に必要なのは、完全な記録ではなく、また空へ戻ることなのだと。
名前も知らない。どこから来て、どこへ行くのかもわからない。それでも、わからないまま見送ることはできる。
迎えの車が着く頃、霧は少しだけ薄くなっていた。職員に箱を渡すと、真琴は玄関先でしばらく空を見た。雲の切れ間に夜の青が見え、その向こうに銀河があることを想像した。見えなくても、なくなったわけではない。
翌朝、真琴は展示室の標本に新しいラベルを付けながら、1枚だけ空欄のカードを机の引き出しにしまった。昨日の渡り鳥のためだった。
何も書かないためのカード。残さないことを覚えておくための、小さな空白だった。

