No.37|フジツボと私

季節は梅雨明けを迎えたばかりの夏のはじまりだった。

美穂は仕事を終え、帰宅途中にスマホを取り出してSNSを眺めていた。画面には友人たちの「エモい」投稿が次々と流れている。夕焼け、海辺の花火、若者たちが青春を謳歌する様子――美穂は小さくため息をついた。彼女にとって現実はそんな「エモい」日常とはほど遠く、毎日が単調に過ぎていく。

自宅に戻り玄関を開けると、かすかな酸味のある香りが漂ってきた。ぬか床だ。母から受け継いだぬか床は、美穂が毎日かき混ぜているおかげで、理想的な風味を保っている。冷蔵庫からきゅうりとナスのぬか漬けを取り出し、小皿に盛ると、静かな食卓が少し華やいだ。

一人でぬか漬けを噛みしめていると、幼い頃、祖母と海へ行った時の記憶がふと蘇った。

潮が引いた岩場に広がる小さなフジツボの群れを、美穂は興味深げに眺めていた。 「フジツボはね、一度くっついたら、ずっとそこから離れないんだよ」 祖母のその言葉を思い出すと、美穂はふと自分自身がフジツボのようだと思った。

「私もこの現実に、ずっとくっついたままなのかな」

そう呟いてから、美穂は自分のスマホを手に取り、皿に盛られたぬか漬けの写真を撮った。照明に照らされたきゅうりの瑞々しい緑が、思ったより美しく映った。

写真に「ぬか漬けは日々の小さな幸せ」と文字を添えて投稿した。

しばらくすると、意外なほど多くのいいねが付いた。誰かのコメントが目に留まる。 「ぬか漬け、エモいですね」

美穂は小さく笑った。

「現実は案外、悪くないかもね」

美穂の呟きは、夏の夜に静かに溶けていった。

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