No.40|右の引き出し

午前6時、真理は駅裏のコインランドリーで、白い封筒を膝に置いていた。中には健人の部屋の合鍵が1本だけ入っている。足もとの紙袋には、引っ越しの荷物に紛れ込んでいた彼の白いシャツが1枚。

洗って返す。それが今日、最後にすることだった。

この店の乾燥機は、布の持ち主が言わずに終えた言葉を、内側のガラスに霜で書く。いつからそうなったのかは誰も知らない。夏でも冬でも、100円玉を入れて3分ほどすると、白い文字がゆっくり浮かぶ。店主は故障ではないと言っている。

真理はシャツを1枚だけ入れた。回転する布は、袖を伸ばしては縮め、何度も同じ場所へ落ちた。最初の霜は、句点のない短い文になった。

――しゃもじは、右の引き出しにある。

真理は笑いそうになって、やめた。そんなことは知っていた。2年半、毎朝そこから取り出していた。

次の1周で、文字はいったん崩れ、またつながった。

――味噌汁は、あれでよかった。

彼はいつも、少し薄いと言った。薄いと言いながら2杯飲んだ。真理は封筒の角を爪で押しつぶした。待っている言葉は、もっと短いものだった。

代わりに、靴下は洗面台の下、ベランダの鉢は水曜、冷凍庫の餃子は先に食べていい、といった暮らしの残りばかりが霜になった。

向かいの椅子では、作業着の老人が新聞を折っていた。自動販売機のコーヒーが落ちる音がして、始発の電車が高架を渡った。真理は冷たい缶を閉じたまぶたに当てた。乾燥機の回る音だけが、店の奥で同じ速さを守っていた。

残り1分で、ガラスの霜が急に薄くなった。最後に現れたのは、

――玄関の灯りは、つけたままでいい。

だった。真理は指で文字をなぞらなかった。健人は帰りが遅い日、玄関だけは消して寝ろと言っていた。彼女はいつも消さずにいた。

乾いたシャツは熱く、ボタンだけが冷たく感じた。真理はきれいに畳み、紙袋に戻した。封筒はさっきより軽く見えたが、持ち上げれば鍵の重さは同じだった。コインランドリーを出ると、八月の歩道には霜の気配などまったくない。

健人の部屋まで歩き、合鍵で扉を開けた。机の背にシャツを掛ける。台所の前で1度だけ立ち止まったが、右の引き出しは開けなかった。

しゃもじがそこにあるかどうかを確かめれば、何かが変わるような気がしたし、変わらないような気もした。

真理は扉を閉め、階下の郵便受けに白い封筒を滑らせた。内側で、鍵が乾いた音を立てた。駅へ向かうあいだ、右の引き出しの位置だけが、住所よりも正確に頭の中に残っていた。

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