海沿いの第3ラジオ塔は、63年使われたあと、その夜20時で役目を終えることになっていた。新しい衛星中継網が動き始め、天気と船便を知らせてきた古い送信設備は不要になる。最後の当直は送信技師の新堂と、保守担当の井上だった。
制御室には、送信した音声を確認するための古い受信機が残っていた。普段は自分たちの放送が半秒ほど遅れて返ってくるだけで、誰も気にしない機械だった。
19時3分、受信機から新堂の声がした。
「井上さん、軍手を落とす。拾いに戻らないで」
新堂は何も言っていなかった。井上は笑い、北側の点検通路へ上がった。11分32秒後、右手の軍手が風にあおられて足場の下へ落ちた。井上が階段へ戻ろうとした瞬間、上から錆びたボルトが落ち、さっきまで頭のあった位置で跳ねた。
2人は受信記録を並べた。時刻のずれは、何度計算しても11分32秒だった。受信機は放送の反響ではなく、11分32秒先の制御室を拾っているらしかった。
机の上では、新堂が持ってきた琥珀糖が小さく鳴っていた。塔が風で揺れるたび、缶の中で硬い砂糖が触れ合う。新堂は1個を机の端に置き、未来が本当に変えられないのか試してみようとした。
次の受信で、未来の新堂は「琥珀糖は床の下。触らないで」と言った。新堂はわざと机の中央へ移した。ところが突風で塔が大きくしなり、缶が滑ってその1個をはじいた。琥珀糖は床の格子を抜け、古い配電盤の下へ落ちた。井上は拾おうとしたが、新堂が止めた。配電盤の下には雨水がにじみ始めていた。
19時31分、受信機がまた鳴った。「北の折り鶴が濡れたら、井上さんを下ろして」。閉鎖式典で近所の小学生が結んだ折り鶴が、手すりにまだ残っていた。紙は風に震えていたが、乾いていた。
6分後、海からの飛沫が点検通路まで届いた。白い折り鶴が灰色に透けた。新堂は無線で井上を呼び戻した。井上が制御室へ入って30秒もしないうちに、北側の梯子を固定していた金具が外れ、鉄の音が塔の外側を落ちていった。
問題はそれで終わらなかった。送信停止の直前になって、アンテナを格納する4番リレーが動かなくなった。伸びたまま電源を切れば、夜中の強風で塔の上部が道路側へ倒れる可能性がある。残りは20分もなかった。
19時50分28秒、受信機から短い声が出た。
「4番端子。歯ブラシ。軍手は外して」
保守箱には、塩で青くなった端子を磨くための古い歯ブラシが入っていた。井上は濡れた軍手を外し、新堂が主電源を落とした区画で4番端子を開けた。歯ブラシで緑青をこすると、金属の色が少し戻った。仮電源を入れるとリレーが動き、アンテナはゆっくり塔の内側へ降り始めた。
19時59分、格納灯が緑になった。20時ちょうど、新堂はラジオ塔の主電源を切った。受信機の針が落ち、63年続いた低い唸りが止まった。
片づけながら、新堂は最後の受信記録を見直した。19時50分28秒に届いた声の送信元は、塔の設備ではなく非常用の携帯無線になっていた。記録された送信時刻は20時2分ちょうど。主電源が切れたあとでも、その無線だけは電池で使える。
20時2分、新堂は携帯無線を手に取った。言わなければ何が起きるのか、井上は聞かなかった。新堂も試さなかった。
「4番端子。歯ブラシ。軍手は外して」
送信を終えると、井上が「その言葉、最初は誰が考えたんでしょうね」と言った。
新堂は答えず、机の下を見た。格子の向こうには琥珀糖が1個、配電盤の影で光っていた。外では濡れた折り鶴が手すりに貼りつき、回収できなかった軍手が暗い足場で風に揺れていた。新堂は歯ブラシを保守箱へ戻し、空になった受信機の前を通って外へ出た。
