No.53|赤だけが鳴った

「非常ベルは鳴りましたか」

原告側の弁護士がそう聞くと、高橋美紀は少し考えてから、「鳴りませんでした」と答えた。東京地方裁判所の小さな法廷で、管理会社の代理人がペンを止めた。

争われているのは、8月17日の朝に起きたマンション火災だった。火元は4階の台所。美紀と9歳の娘・葵は6階から避難し、煙を吸って2日間入院した。管理会社は、警報盤に作動記録が残っている以上、非常ベルは正常だったと主張していた。

その朝、葵は熱を出して学校を休んでいた。7時14分、美紀は体温計に出た38.7度をスマートフォンで撮った。学校へ欠席連絡をするためだった。写真の端には、皮を半分むいたみかんと、葵が前日に商店街でもらった万華鏡が写っていた。

4分ほどして、葵が「赤が何回も来る」と言った。

ソファで万華鏡を覗いていた葵には、玄関脇の壁に反射した赤い光が筒の中へ入り、模様になって見えていた。美紀が扉を開けると、廊下は薄い煙で白く、階段前の表示灯が点滅していた。

非常ベルは鳴っていなかった。

美紀は裸足のまま玄関にあったサンダルを履き、葵にも靴を履かせず、そのまま非常階段へ向かった。スマートフォンも財布も部屋に置いた。テーブルには、体温計とみかんが残った。

管理会社側の弁護士は、警報盤の記録を示した。作動時刻は7時17分42秒。「この時刻に警報信号が出ていますね」。美紀は「記録のことは分かりません」と答えた。「私が聞いていないのは分かります」

避難直後に消防隊が撮影した階段の写真も証拠になった。灰の上に、美紀のサンダルの底と同じ波形の跡が残っていた。6階から1階まで途切れず続き、途中で立ち止まった形跡はなかった。

午後には葵も証言した。裁判長が「赤い光を見たとき、音はした?」と聞くと、葵は首を振った。「音がしたのは、万華鏡を振ったときだけです。中の粒がカラカラしました」

法廷で、その言葉だけが妙に大きく聞こえた。

次に設備会社の技術者が呼ばれた。警報盤のログは、火災信号を受けてリレーが動いたことを記録する。しかし、廊下のベル回路に実際に電流が流れたかまでは記録しない。ベルの配線を外した状態でも、同じ「正常作動」の記録は残るという。

さらに、火災の9日前の点検報告書が提出された。2階の非常ベルが誤作動を繰り返したため、技術者はベル回路のヒューズを一時的に外していた。交換部品の入荷予定は8月20日。報告書の末尾には、管理会社の担当者の署名があった。

担当者は証言台で、「表示灯までは止まっていないと思っていました」と言った。弁護士が「ベルが鳴らないことは知っていたのですか」と聞くと、今度は答えるまでに時間がかかった。

裁判長が確認した。「あなたがこれまで『非常ベルは作動していた』と言っていたのは、音が出ていたという意味ではなく、警報盤に記録が残っていたという意味ですね」

担当者は「はい」と答えた。

判決では、非常ベルは火災信号を受けていたが、居住者へ音で警告する機能を失っていたと認定された。避難の遅れについて管理会社の責任も認められた。判決文には、警報盤の記録、点検報告書、サンダルの足跡、そして葵の証言が順番に挙げられていた。

裁判所を出ると、葵は鞄から万華鏡を出した。美紀が売店で買ったみかんを1つ渡すと、葵は受け取らず、先に筒を空へ向けた。晴れた空の光が細かく割れて、中で赤い欠片が動いた。

「今日は静かだね」と葵が言った。

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