海沿いのホテルで夜勤をしている中原が、青い風船をフロントの下に隠したのは、宴会場の片づけが終わって30分後だった。昼の披露宴で余ったものだ。糸の先には「HAPPY WEDDING」と銀色の文字が揺れていた。
牧田から話を持ちかけられたのは3日前だった。「事務所の金庫から現金を持ち出す。お前は裏口と合図だけ」。報酬は20万円。中原には消費者金融の残りが41万円あった。半分になる、と最初に計算した。
牧田は喫茶店のテーブルに方眼紙を広げ、ホテルの1階を几帳面に描いた。厨房、事務所、非常階段、裏口。定規を使った線の中で、金庫だけが雑な四角だった。
金庫の鍵は厨房にある。業務用のわさびの容器、その下に黒いテープで貼ってある。牧田が料理長だったころから、黒瀬社長は隠し場所を変えていない。
合図も単純だった。黒瀬が帰り、金庫に金が残っていたら、2階の海側の窓に青い風船を結ぶ。牧田は防波堤の先、灯台の下で待つ。風船を確認したら、懐中電灯を2回振る。
その夜、披露宴の売上と翌朝の仕入れ金を黒瀬は自分で数えた。封筒を3つに分け、輪ゴムをかけ、午後11時40分に事務所へ入った。午前0時15分、黒瀬は手ぶらでホテルを出た。
中原は5分待った。それから青い風船を2階の窓に結んだ。海風に引かれて、銀色の文字が何度も裏返った。
灯台の足元で光が2回動いた。
午前0時32分、裏口が静かに開いた。牧田は黒い上着のポケットから懐中電灯を出し、中原に目も合わせず厨房へ入った。わさびの容器を持ち上げると、鍵は本当にそこにあった。
金庫は音もなく開いた。
中には何もなかった。棚も、封筒も、硬貨の1枚もなかった。奥の鉄板まできれいに見えた。
牧田はしばらくしゃがんだまま動かなかった。「先にやったのか」と言った。中原は首を振った。牧田は中原のポケットまで探したが、出てきたのは客室のマスターキーと、風船を結んだときに切った短い糸だけだった。
牧田は方眼紙にはなかった非常口から出ていった。灯台のほうへ戻ったのか、町へ逃げたのか、中原には分からなかった。青い風船を外すと、窓ガラスに丸い跡だけが残った。
午前6時5分、黒瀬が戻ってきた。隣には会計を任せている森下がいた。2人とも金庫を見る前から、困った顔をしていた。
「昨日、ここに600万円あった」黒瀬は空の金庫を指した。「警察が来たら、お前はそう聞いていたと言え。裏口も閉まっていたことにしてくれ」
中原が黙っていると、黒瀬は上着の内ポケットから折り畳んだ方眼紙を出した。牧田が描いたものだった。右下に、中原の字で「青い風船/灯台から2回」と書いてある。
黒瀬は方眼紙を半分に折り、中原の胸ポケットへ差し戻した。「次は赤にしてくれ」と言った。
「青は海から見えにくい」
