No.45|打球は新聞を読まない

県大会の準々決勝は8回裏まで1対1だった。尾島はベンチの端で、氷の溶けた麦茶を膝に挟んでいた。3年生になってから公式戦で打席に立ったのは1度だけ。地元の新聞は大会前の特集でレギュラー9人の顔写真を載せ、控え選手は「ほか」とまとめた。尾島はその紙面を折ってバッグに入れていた。捨てる理由も、持っている理由もなかった。

球場の左翼後方には踏切があった。電車が来るたびに警報音が外野の風を切り、売店の軒に吊られた風鈴がしばらく聞こえなくなる。音が戻ると、試合も元の大きさに戻るようだった。

8回表、右翼の木戸がベンチへ戻ってきた。右手の親指に貼った絆創膏が汗でずれ、その下の皮がめくれていた。木戸は大会前の新聞で「長打力のある主軸」と紹介された選手だったが、バットを握るたびに顔をしかめた。

監督が尾島を見た。

「次からライト。」

尾島は麦茶を1口だけ飲み、帽子のつばを押さえて守備へ走った。右翼には1球も飛んでこなかった。

9回裏、2死2塁で木戸の打順が回った。いま打席に立つのは尾島だった。相手投手の新田はこの回だけで2つ三振を取っている。球速表示は速くなかったが、直球が打者の手元まで同じ高さで来た。

初球は外角の直球。見送ってストライク。2球目は低い変化球を振って空振り。あっという間に0ボール2ストライクになった。

そのとき踏切が鳴り始めた。

警報音に応援席の太鼓が重なり、風鈴は消えた。尾島には捕手の声も監督の声も聞こえなくなった。聞こえたのは、自分の鼻から出る息だけだった。

3球目。新田の球は外へ外れた。尾島は振らなかった。4球目は内角をファウルにした。打球が1塁側の金網へぶつかるころ、電車が踏切を通過した。

バッグの中の新聞を思い出した。「主軸」「注目」「ほか」。紙の上では役割がきれいに分かれていた。けれど投手の指から離れた球には、誰が主役か書いていない。

5球目は外角低めだった。尾島は引っ張らず、バットを少し遅らせた。打球は1塁手の横を抜け、右翼線を転がった。2塁走者が3塁を回る。右翼手が追いついて投げたが、返球より先に走者の右足が本塁へ入った。

審判が両腕を横へ広げた。そこで初めて、風鈴の音が戻ってきた。

試合後、記者が監督の横から顔を出し、「最後に打った子、名前は」と聞いた。尾島は自分で答えた。「尾島です。尾っぽの尾に、島です」。記者は濡れたメモ帳に2文字を書いた。

更衣室では、開けっぱなしのバッグに麦茶がこぼれていた。折ってあった新聞が半分ほど濡れ、レギュラー9人の顔写真のインクが少しずつにじんでいた。尾島はそれを広げて靴の泥を受け、そのまま床に置いた。

親指に小さな裂け目ができているのを見ていると、木戸が新しい絆創膏を1枚差し出した。何も言わなかった。尾島も何も言わず受け取った。

翌朝の新聞で、尾島の写真は載らなかった。記事の終わりに名前が2行だけあった。彼はその2行を切り抜かなかった。

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