No.49|薄明駅

築40年の「朝凪ハイツ」は3階建てで、エレベーターはない。管理会社の宮地奈緒が203号室へ入ったのは、住人の黒田が失踪してから11日目の夕方だった。警察の確認が終わり、残された私物を一覧にするためだった。

部屋は妙に片づいていた。テーブルの上に電卓、使いかけの口紅、土だけ入った植木鉢、古い切符。その4つが等間隔に並んでいた。冷蔵庫は空で、押し入れにも服はなかった。

切符には「薄明」と印字されていた。日付は1998年8月17日。片道。行き先の欄だけ、紙が爪で削られたように白くなっている。奈緒は駅名を検索したが、同じ名前の駅は見つからなかった。

電卓は電源が入っていた。表示は27。奈緒がクリアキーを押すと0になり、指を離すと27へ戻った。電池を抜いても数字は消えなかった。

そのとき、天井灯に蛾が1匹ぶつかった。

窓は閉まっている。奈緒が見上げていると、植木鉢の土が少し盛り上がり、もう1匹が這い出した。羽を乾かすように開き、照明へ飛ぶ。電卓の表示が26になった。

奈緒は植木鉢を持ち上げた。底には赤い輪がついていた。口紅の色だった。テーブルにも同じ赤で、小さな矢印が描かれている。矢印は押し入れを指していた。

口紅の蓋を開けると、芯はほとんど残っていなかった。キャップの内側に、細い字で「27匹目を見たら返す」と書かれていた。黒田の筆跡かどうかは分からない。

蛾は次々に土から出た。電卓は25、24、23と減っていった。奈緒は数えるのをやめようとしたが、数字の方が勝手に数えていた。

12になったところで廊下の照明が消えた。8で、上の階から椅子を引く音がした。朝凪ハイツに4階はない。3になると、押し入れの奥で駅の到着ベルが鳴った。

2。奈緒は切符を植木鉢の土へ差し込んだ。何も起きない。1。最後の蛾がゆっくり這い出し、赤い輪の上で羽を開いた。

電卓が0になった。

押し入れの戸が内側から少し開いた。奥にあるはずの壁はなく、黄色い照明のホームが延びていた。柱の駅名標には「薄明」とある。線路の向こう側で、黒田が植木鉢を抱えて立っていた。

黒田は奈緒を見なかった。自分の口元へ指を当て、それから線路の先を指した。そこから電車の音が近づいていたが、レールはどちらへも続いていなかった。

奈緒は戸を閉めようとした。背後で電卓のキーが1度だけ鳴った。振り返ると表示は28だった。テーブルの上には、さっき土へ差したはずの切符が戻っていた。削れていた行き先の欄に、赤い口紅で「朝凪ハイツ」と書かれていた。

翌朝、管理会社の別の担当者が203号室を開けた。部屋には家具も私物もなく、床の中央に植木鉢だけが置かれていた。土の上では、新しい蛾が1匹、まだ畳まれた羽をゆっくり伸ばしていた。

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