No.46|次に食べるので

共同住宅「榎荘」の管理人室から12万円が消えたのは、金曜の午後8時すぎだった。町内会の祭りで使う現金で、白い封筒に入れ、管理人の吉田が机の右側の引き出しへしまった。午後8時30分に戻ると、封筒だけがなくなっていた。

引き出しには鍵がかかっていた。窓は内側から閉まり、ドアにもこじ開けた跡はない。鍵は吉田がズボンのベルトに付けている1本だけだった。その時間、建物にいた住人は4人。

交番から来た佐保は、管理人室より先に共用の洗面所を見た。薄青い石鹸を持ち上げ、裏返す。表面に細長い溝があり、その中へ6つの小さな山形が並んでいた。水でふやけた石鹸の端には、銀色の粉も少し残っていた。

「鍵を押しつけましたね」

吉田は毎夕、植木に水をやったあと、この洗面所で手を洗う。鍵束を洗面台へ置く癖もあった。石鹸に型を取り、あとで合鍵を作る時間は十分にあった。問題は、誰が午後8時から8時30分まで管理人室へ行けたかだった。

木島は「ずっと部屋でカスタネットを練習していました」と言った。隣室の女性も、午後8時5分から20分ほど、壁越しに規則正しい音を聞いている。カッ、カッ、カッ、と同じ間隔だったという。木島は趣味でフラメンコを習っていた。

屋上には共用の望遠鏡があった。佐保が覗くと、星ではなく管理人室の窓が中央に入っていた。三脚の脚には新しい擦り傷があり、向きを変えた跡がある。吉田が封筒を引き出しへ入れるところは、屋上からならよく見えた。

木島は「望遠鏡なんて半年触っていない」と言った。佐保は返事をせず、彼の足元を見た。右の靴だけ靴紐が新品だった。左は毛羽立った黒い紐で、長さも色も微妙に違う。

木島の部屋には、小さな扇風機があった。羽根ではなく首振り部分の柵に、黒い繊維が引っかかっている。机の上のカスタネットは片方だけ革紐が妙に伸びていた。

佐保は新品の靴紐を外し、古いカスタネットを扇風機の柵へ結んだ。首振りを強にする。扇風機が右へ向くたび、木の板が机の縁へ当たった。カッ。左へ戻る。少し間を置いて、またカッ。

隣室の女性が廊下から顔を出した。「昨夜と同じ音です」

20分のアリバイは、靴紐1本で作れた。木島は何も言わなかった。佐保は、合鍵で管理人室へ入り、現金を持ち出し、戻ってきて扇風機を止めるまでなら10分もかからないと言った。

「でも金はないでしょう」木島はようやく言った。「部屋も見たじゃないですか」

佐保は共用台所へ戻った。冷蔵庫の野菜室に、大きな白菜が1玉入っている。透明な袋には白い紙が貼られ、鉛筆で「次に食べるので」とだけ書いてあった。白菜の外葉は冷えているのに、芯に近いところだけ妙に乾いていた。

佐保は葉を3枚めくった。4枚目と5枚目の間から、薄いビニール袋が出てきた。その中に白い封筒があった。12万円は全部そろっていた。

望遠鏡で封筒の場所を確かめ、石鹸で作った型から合鍵を用意し、カスタネットと靴紐で部屋にいる音を作る。盗んだ金は白菜へ隠して、騒ぎが収まってから持ち出す。佐保が順番に言うたび、木島は肩を小さくした。

資格学校の受講料が月曜までに必要だった、と木島は言った。給料日には戻すつもりだったらしい。吉田は封筒を受け取り、中身を数え直した。

連れて行かれる前、木島は冷蔵庫を振り返った。「あの白菜、捨てないでください」と言った。誰も返事をしなかったので、もう1度だけ付け足した。

「次に食べるので」

タイトルとURLをコピーしました