川沿いの水門管理所で、美砂と久保田が一緒に夜勤をするのは、その晩が最後だった。翌週から水門は市役所の管制室で遠隔操作され、古い管理所には昼間の点検員しか来なくなる。2人は6年同じ班にいたが、最後だからといって特別な話はしなかった。
壁には建設当時の青写真がまだ残っていた。紙の端は湿気で波打ち、機械室へ下りる階段だけが濃い青で描かれている。美砂は新人のころ、その図面を見ながら久保田に弁の名前を教わった。今では久保田より早く異音に気づく。
操作盤の横には、金平糖の瓶があった。増水警報が解除されるたびに1個食べる、という久保田の習慣で、誰も理由を知らない。美砂が聞いたときは「解除された感じがするから」と答えた。説明になっていなかったが、6年たつと説明の不足にも慣れた。
久保田は来週から離島の港湾事務所へ移る。美砂は3日前、勤務表の備考欄でそれを知った。本人からはまだ聞いていない。荷造りをしているらしく、机の引き出しはいつもより空いていた。
午後10時40分、上流の雨量計が警戒値を超えた。試験運転中だった遠隔装置がエラーを出し、水門は半分開いたところで止まった。久保田が操作盤を2度たたき、美砂は「それで直ったら報告書に書けません」と言った。直らなかった。
2人は雨具を着て機械室へ下りた。手動ハンドルは冷たく、回すたびに床下から鈍い振動が上がってきた。川の音は壁の向こうで大きくなっていた。久保田が数を読み、美砂が回した。途中で交代し、最後の20回だけは2人で同じ棒を押した。
管理室へ戻ると、美砂の指は赤くなっていた。久保田は机の下から湯たんぽを出し、タオルで包んで渡した。美砂は「これも島へ持っていくんですか」と聞いた。久保田は「向こうは暖かいらしいので」と言った。
そのあと久保田は、空になりかけた引き出しから細長い紙袋を取り出した。中には竹の耳かきが1本入っていた。持ち手に小さな魚の絵が焼き付けてある。美砂はしばらく見てから、「送別される側が配るものとしては変ですね」と言った。
久保田は「駅前の道具屋が閉店するので」と言った。美砂が何度か店先で同じ耳かきを眺めていたのを覚えていたらしい。買ったのは半年前だったという。渡す理由が見つからず、机に入れたままになっていた。
美砂は笑った。それから急に腹が立った。「半年前に耳かきを買える人が、転勤は3日前まで言えないんですね」
久保田は操作盤を見たまま黙った。警報灯が赤く点滅していた。しばらくして、「言うと、行かない理由を探しそうだったので」と言った。
美砂は返事をせず、壁の青写真を見た。図面の右端には、昔2人で書き込んだ鉛筆の線が残っていた。点検用の通路を勘違いして引いた線で、後から消すつもりがそのままになっている。間違った線でも、6年見続けると地図の一部に見えた。
午前0時すぎ、遠隔装置が復旧した。市役所から確認の電話が入り、水門の開度が正常に表示されていると告げられた。久保田は受話器を置き、金平糖の瓶を振った。底に2個だけ残っていた。
1個を美砂に渡し、1個を自分で食べた。美砂はすぐには口に入れず、湯たんぽの上で転がした。白い角が薄い光を拾った。
朝、交代の職員が来ると、久保田は私物を紙袋へ入れた。美砂も机を片づけ、竹の耳かきを筆箱へ差した。筆記具の間から白い房だけが飛び出し、ひどく場違いだった。
玄関で久保田が「では」と言った。美砂は「島へ行く船、土曜は何時ですか」と聞いた。久保田は1度聞き返してから、「午前10時20分です」と答えた。美砂はうなずき、「青写真、向こうにもあるなら見せてください」と言った。
久保田が外へ出たあと、遠隔操作の水門が試験でゆっくり閉じた。管理室のランプが赤から緑へ変わった。机の下には置いていかれた湯たんぽがあり、まだ少しだけ温かかった。
